※トウコちゃんが記憶喪失になってます。暗いです。







 燦々と日の差す朝だった。ベルが身だしなみを整えて家の外へ出ると、トウコは庭の水撒きをしていた。
「あれ、おはよう、ベル」
 トウコはベルに気がつくと、ぶんぶんと元気に手を振った。ホースから放物線を描いて流れ出す水は、光に反射してきらきら光っている。水の落ちる先では、トウコのツタージャが気持ちよさそうにシャワーを浴びていた。この間生まれたばかりのそのツタージャを、トウコはいたくかわいがっている。
「おはよう、トウコ。早いねぇ」
「なにー、ベルったらオシャレしちゃって。さてはデートかな?」
「そ、そんなんじゃないってば!」
 トウコはあははと大きく口を開けて笑った。ベルはそれを見て、少しだけほっとする。
「またまた照れちゃってー」
「もう、ほんとだって!」
「わかってるって。冗談よ。ジョーダン」
 トウコは水を止めると、ベルの方へ歩み寄ってきた。
「トウコ、今日は調子良いの?」
「うん、わりとね。頭も痛くないし。ベルは出かけるの?」
「今日はヒウンシティまで行くの」
「気をつけてよーナンパとか。ベルかわいいんだからー」
「もう、私だってポケモントレーナーなんだから!それにエンブオーを連れていくから、大丈夫よ」
「ははっ、それなら大丈夫ね……ちょっと、くすぐったいよ」
 トウコの足にツタージャがじゃれついてきて、トウコは優しく微笑む。
「もう、この子は甘えんぼね。元のご主人とは大違いだわ」
「……そうだね」
 トウコの最初のパートナーはミジュマルだった。ツタージャを最初のパートナーに選んだのは……。
「……チェレンは、いつになったら帰ってくるのかしら」
「…………そうだね」


 トウコはある日突然記憶を失った。
 本当に突然のことだった。しかも、しばらくは誰も、ベルだって気が付かなかった。
 最初に気がついたのは、チェレンだった。
 普段は「最強のトレーナーを目指す」といってイッシュ各地を転々としているチェレンだが、その日は久しぶりにカノコタウンに帰ってきていた。そこで、家の前でポケモン達とひなたぼっこをしているトウコを見つけて、声をかけ話したのだという。
 たわいのない話をのんびりとしている中、「そういえば、元プラズマ団のやつに会った」という話題をチェレンは口にした。今は改心してポケモンと暮らしてる、トウコにも会いたがっているという話をしたが、トウコの反応は非常に薄いものだった。
「プラズマ団?」
 きょとん、としたトウコの反応に、チェレンは違和感を覚えたという。まわりにいるトウコのポケモン達が急にそわそわしはじめたのもそれに拍車をかけた。
「プラズマ団って、何?」
 そこで初めて、トウコが記憶を失っていることに気が付いたのだ。
 トウコは、プラズマ団に関する記憶をことごとく失っていた。カラクサでの演説も、冷凍コンテナに七賢人を探しにいったことも、プラズマ団の城も、全部。
 決定的だってのは、彼女の6体目のポケモンだった。
 チェレンはトウコの腰にひとつだけモンスターボールがついているのを見つけた。トウコのまわりで一緒にひなたぼっこをしていたポケモンは、全部で5体。
「トウコ、そのポケモンは出してあげないの」
 チェレンが訊ねると、トウコはモンスターボールがあることに今気が付いたかのように、驚いた顔をしたという。
 そのモンスターボールから出てきたのは、
「レシラム……」
 レシラムと目が合うと、トウコはそのまま気絶してしまった。チェレンは慌ててトウコを抱き起した。するとトウコのポケモン達もすり寄ってきて、一様に哀しそうな目をしていた。特に、レシラムはその身を縮めて、心配そうにトウコを見ていたという。


 チェレンが気付くまで誰もトウコの記憶喪失がわからなかったのは、トウコが失ったのはプラズマ団に関する記憶、トウコが経験したあのつらい記憶だけで、他は普段通り生活していたからだ。トウコの母親は、カノコタウンに帰ってきてから、旅に出る前と変わらず生活していたと言っていた。
 トウコの母親は、トウコの記憶喪失のことを聞いて、そっとしておいてほしいと言った。あの子が忘れたくて忘れてしまったことなら、無理に思い出さなくても良いでしょう、と。
 何日かして、ベルはチェレンにアララギ研究所で話がしたいと呼ばれた。
「そもそも、トウコがずっとカノコにいること自体がおかしかったんだ」
 ベルとアララギ博士を前にして、チェレンはそう言った。
「トウコは、あれからずっと何かを探すようにイッシュを巡っていたのに……どうして気付かなかったんだろう」
 チェレンは悔しそうに唇を噛んだ。ベルも同じ気持ちだった。どうして幼馴染の異常にすぐに気付かなかったんだろう。どうして……。
「ドクターは、心因性の部分健忘だって言ってたわ。次第に記憶は戻るだろうとも……でも……」
 アララギ博士もつらそうな表情だった。
「これは、私達大人の責任よ。トウコに、あんなつらい戦いを押し付けてしまった……」
「アララギ博士が、責任を感じることではありませんよ」
 チェレンはアララギ博士の背をさすった。その時、ベルは少し変だと思った。チェレンは何かを思いつめている時、自分のことしか見えなくなって、誰かを気にかけることができなくなる質だ。もしかして、チェレンはもう何をすべきか決めているのではないか、そう思ったのだ。
「……僕は、トウコが忘れてしまったのは、一連のプラズマ団の事件じゃなくて、あいつ……Nのことじゃないかと思うんです。Nに関連するすべての出来事を忘れてしまったんじゃないかと思うんです。それを……」
 チェレンはベルとアララギ博士にモンスターボールを見せた。
「レシラムを見たときに、そう思ったんです。確証は、無いけれど」
「これは、トウコのレシラム?」
「うん。トウコに借りてきた。あと、こいつも」
 そう言ってチェレンが差し出したもう一つのモンスターボールには、トウコの最初のパートナー――今は最終形態に進化した、ダイケンキが入っていた。
「トウコのポケモン達は、トウコが記憶喪失になってしまったことにとっくに気付いていた。それに、その理由にも。僕は、トウコと彼の最後の戦いを知らない……でも、ポケモン達は知ってる。きっと、何かがあったんだ、あの時に。僕達が知らない、トウコが記憶を無くしてしまうような何かが……」
 チェレンはどうして、レシラムだけでなくダイケンキも借りてきたんだろう。その理由に思い当たって、ベルは嫌な予感がした。
「チェレン、チェレンは何を……」
「僕は、あいつを探しに行く。探し出して、一発殴ってやらないと気が済まない。トウコを記憶を無くしてしまうほどつらい目に合わせたあいつに……。たぶん、トウコのポケモン達も、同じ思いなんだと思う」
 チェレンは二つのモンスターボールをぎゅっと握りしめた。
「僕は、あいつを探しに行く。トウコのお母さんは記憶が戻らなくてもいいって言っていたけど、トウコは、あいつの記憶に関わるようなことに触れると、思い出すのが嫌で気絶してしまうんだ……いつまでも主人に会えないのは、レシラムもかわいそうだしな。……僕を止めますか、アララギ博士」
 アララギ博士は、ひとつ溜め息を吐いた。
「チェレン、あなたは今やトップレベルのポケモントレーナーよ……止めるにしたって、理由が無いわ」
「チェレン……」
「ベル、ベルはトウコのそばにいて、トウコを支えていてほしいんだ。トウコは表面上は元気にしているけれど、たぶん自分の記憶がところどころ無いことに気付いている。きっと不安だろうから、フォローしてやってほしい」
「……うん」
 そうして、チェレンはレシラムとダイケンキを連れて行ってしまった。
 トウコには、ポケモンを借りる際に武者修行の旅に出るからしばらく帰らないと言ったという。
「勝手なもんよね。ほら、こないだ生まれたんだけど面倒見れないからかわりに見てくれって預けてったのよ」
 そう言って、トウコはポケモンのタマゴを見せてくれた。タマゴはたまに、かたかたと動いて、もうすぐ生まれることを告げていた。


「チェレン、早く帰ってくるといいね」
 トウコはうーんと伸びをしながら言った。トウコはたまに変な頭痛がすると言っているが、カノコタウンで静かに過ごしている。
 逆に言うと、カノコタウンから出ようとしない。おそらく怖いのだ、と思う。隣町のカラクサタウンは、トウコがNと初めて出会った街だ。きっと、無意識のうちに記憶を思い起こさせるような場所には近づかないようにしているのだ。
「……そうだね」
「ベルもさびしいでしょう?チェレンがいないと」
「どうして?」
「え、だってベルってチェレンのこと好きなんでしょう?」
 トウコはあっさりと言った。
「ベルみたいな可愛い子ほっとくなんて、チェレンもどうかしてるよ!」
「そ、そんなことないよ!チェレンのことなんて何とも思ってないってば!」
「またまたぁ、ベルのことならなんでもお見通しだよ!なんてったって、幼馴染だもの」
 トウコはいたずらっぽく笑った。
「だからそんなことないってばぁ……」
 今、トウコは笑っている。
 トウコが忘れたい記憶なら、忘れたままでもいいのかもしれない、とベルは最近思う。前みたいな、何にでも気高く立ち向かっていくトウコに戻ってほしいと思うのは、ただのエゴなのではないか、と。
「……僕は、トウコが記憶を失った理由に、心当たりがあるんだ」
 旅立つ前、見送りにいったベルにチェレンはつらそうに言った。
「トウコがカノコに帰った日の前日に、トウコがおそらく記憶を失った前日に、僕はチャンピオンロードでトウコに会ったんだ」
 チェレンはベルに話しているけれど、ベルを見ていない。
「その時、もう理由が何だったかも忘れてしまったけど、トウコと軽く口論になったんだ。そして、僕は言ったんだ。『君は、あいつに惹かれていたんだろう』と。たぶん、それが記憶を失うきっかけになったんだと思う」
 ベルは、チェレンがどこか遠くを見たまま話しているのが、哀しくてたまらなかった。
 ベルには二人の口論の理由がなんとなくわかっていた。
(きっと、私とチェレンの間を取り持とうとしたのね。チェレンはトウコのことがすきなのに)
 チェレンが帰ってくる時は、チェレンがNを見つけた時だ。
 もしトウコをNに引き合わせたら、トウコの記憶は戻るのだろうか。そんなことはわからない。けれど、チェレンなら必ずトウコとNを引き合わせるだろうと、ベルは確信に近い思いを持っていた。自分の恋が報われなくても、トウコのことを一番に考えるだろうから。
 その日が来てほしいと思っているのか、来てほしくないのか、ベルはわからないけれど。
「……ねぇ、トウコ」
「ん、何?」
「いつか、ライモンシティの観覧車に乗りに行きましょう、一緒に」
「観覧車……」
 ふっとトウコの目が遠くなって、次の瞬間トウコは膝から崩れ落ちた。驚いたツタージャがパニックになってあたりを駆け回っている。
「エンブオー、トウコを運んでくれる?」
 気絶してしまったトウコを見て、ベルは思う。
 あんなに強いトウコが忘れてしまうほどの記憶なのだから、よっぽどつらいものなのだとは思う。でも、
(私は、思い出さなきゃいけないって、そう思うよ。きっとチェレンも、そう思ってる)
「だから、ゆっくりでいいから、思い出して……」
 カノコタウンにそそぐ日差しは燦々と明るい。その中で、ベルは追憶のように祈る。
 びゅうと一陣の風が通り抜けた。







2011/3/3





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